当サイト内に広告が含まれております。

住み込み新聞配達のアルバイト【奨学金】って大変?実際の経験者が詳しく教えます。

新聞配達(住み込み)のアルバイトって大変なの?

私は新聞配達をして予備校の奨学金を得て住み込みのアルバイトをしていました。

その期間は1年です。

今となってはとてもいい思い出です。

長くやっている人からすれば期間が短いかもしれませんが、お話しできる範囲でやっていこうとおもいます。

新聞配達の朝刊の流れ

新聞配達は、結構色々な人が携わっています。

朝、新聞をトラックで持ってきます。

それを受ける正社員の人がいて、その人がその職場で電話や何かあったときの代配をする役割です。

私は、朝刊と夕刊を配達するだけ。予備校生だったから。

朝刊の新聞がくると、それをエリアごとに新聞を分けます。

エリアごとに大体で分けているので部数はまちまちだと思います。

マンションが集中する地域などもありますし、事務所から遠い所もあります。

自分のエリアの新聞をもってきて、台の上で今度は広告を新聞にはさみます。

眠い目をこすりながらですが、話しながらやる人、タバコを吸いながらやっている人色々いましたね。

自転車に新聞を積む

今は自転車や電動自転車、バイクで配っていますが、我々の頃は自転車でした。

地域柄、東京だったからかもしれませんが、自転車に新聞を高く積んで出発です。

前と後ろに分けて積んでかなり重いのですが、普通の自転車と違って、前のハンドルがロックがかかる仕様になっていたと思います。

まず、後ろに積んだ新聞を決まった場所にとりあえず置いておきます。

それから、前に積んだ新聞を配りに行きます。

雨や雪は大変な配達

新聞配達は、結構新聞が少なくになるにつれ最後の1部を配り終えると爽快なのですが、やはり雨や風の強い日は大変でした。

まず新聞は濡れないようにしなければなりません。

私の時代には新聞をビニールに入れていなかったと思います。

そのため、自転車に積むときに工夫してビニールをかけてとかしてました。

風の強い日に自転車が倒れてしまうとそれはもう大変でした。

部数は3時間ぐらいで配れる

部数は2時間ぐらいで配れる範囲だったとおもいます。

早いと2時間ちょっと遅いと7時ぐらいに帰ってくる人もいましたね。

寝坊した人もいますし、少しトラブルで苦労したときにはそうなります。

朝刊はやはり7時までには配り終えておきたいものですよね。

出勤時間までに目を通したい人もいますので。

遅配、誤配の対応も基本担当者だった

当たり前ですが、自分が配り忘れたお客様は、連絡が正社員からきて配りに行きお詫びに行きます。

これが、配り終えて、また眠りに入ったころに電話がくるので結構大変だったです。

まあ、間違えなければいい話ですけど。

夕刊を配る手順

夕刊は部数が朝刊よりは少なく、広告もない、しかも厚みも半分ぐらいということで楽だったと思います。

ただ、朝刊に起きて、配り、眠った後の夕刊でそのペースをつかむのに苦労する人もいます。

新聞奨学生の給料

新聞奨学生は予備校や大学に通う間、新聞配達をしながら寮に住み込みでアルバイトをするのですが、予備校の授業料は出してくれたと思います。

そして寮費もただです。

寮は営業所の上が部屋になっていました。

これだけでは部屋が少ないため近隣のマンションの人もいましたね。

食費は自炊か、寮で一カ月当時3,000円ぐらいだったと思います。

毎朝、料理をしに女性が来て、温かい飯が食えます。

最初はそれをしていたのですが、料理がうまかったのですが、ご飯が炊きたてのときもあれば、昨日の残りの場合もあったのです。

私は、その残りのご飯を食うことがどうしてもできませんでした。

時間がたつとご飯って少し臭いますよね。

それがムリだったんですね。

新聞奨学生の制度で浪人予備校生となること

東京に上京して、新聞奨学生の仲間と過ごした日々、1年という短い間でしたがとても思い出深いもので、そこを辞めてからもしばらく会っていました。

そして、有名予備校の近くに寮があり、わずか30分ほどで行けるぐらいの立地でしたのでそういう面では満足でした。

しかも、予備校の授業料がタダになるなんて最高だと思いました。

しかし、浪人をして勉強時間が十分にとれたのかといえば、疑問でした。

私を含め浪人生は数人いましたが、合格したのは私だけでした。

私が、勉強をそこでできたかというと答えはNOです。

予備校も最初は通っていたのですが途中から怪しくなり、最後は全く通いませんでした。

そして絶対受かる大学を受けて、そこだけ受かりました。

それが今からみてよかったのか、悪かったのかは、分かりません。

なぜ予備校生が新聞配達がダメなのか。

金銭面では問題ないこの奨学金制度ですが、やはり、東京には誘惑がたくさんあるということと同じ年代の全く違う境遇の人との出会いなどが挙げられます。

奨学生と言えど、給料はいくらかもらっていたと思います。うる覚えですが、7,8万ぐらいかな。

それでも自炊をしたりするのには十分の金でしたし、たまに外食に行ったり楽しかったのは間違いありません。

ただ、寮に住む人がゲームをしていたり、話をしているとその話に入ったり、また,朝刊夕刊のあとには本来であれば勉強をしなくてはならないのですが、なかなかできなかった。

というか、ほとんどできなかったです。

もっと自分が浪人をすることに真剣になっていればよかったのですが、当時の私(今でもそうですが)はかなりアホでしたので後悔先に立たずですね。

営業や集金をする部隊もいました

新聞の営業店は、配達だけでなく営業や集金をする部隊もいました。

私はやっていなかったのですが、今と違ってアナログな時代ですから、1件1件集金をして夜までやっていて大変そうでしたね。

正社員で夫婦で住み込みでやっていた人もいたりとか、外国人がいたりとか、おそらく20~30人ぐらいいたのでにぎやかでした。

営業は、その部数を伸ばすために色々回って新聞を取ってもらうよう営業するのですが、これも正社員とそのために特別くる営業団のような人がきてましたね。

結構人相が怖そうな人もいました。

令和に入り、新聞の部数も年々減少傾向にあります。

私がやっていた時は毎年部数が右肩上がりの時代でした。

今から考えると人生にとってとても感慨深い大切な思い出です。

参考になったでしょうか。

あの若いころに戻りたい。そんな気持ちです。